・はじめに
ついに12月になりました。今年も早かったです。今年始まってすぐにあったダウンタウンDX最強占いランキングで3位だったんですけど、特になんもなかったです。全てのジャンルで高かったのですが、占いとは難しいものですね。
2週間前に月一恒例の広島に帰ったら、西条にあったやまいしが潰れてました。だいぶショックです。
丘みどりが結婚してて、いつのまにか赤ちゃん産んでたことよりもショックです。
やまいしのラーメン大盛り+生姜焼き+唐揚げという炭水化物の暴力を西条で食べるのが広島に帰る楽しみだったのに、、、
これからは西条のフジグランのミョンドンヤのビビンバばっか食べるハメになりそうです。(広島とか愛媛の人ならわかるはず)
そんなことはさておいて皆さんは転校、転園をしたことがありますか??
私はあります。数えたら6回してました。しかも広島と島根を行ったり来たりしてました。三原から東広島への転勤は引っ越しせんでよかったじゃろ思いますけど、、、
そのなかでたった3ヶ月しか住んでないのに、限界を迎え、早く府中に行かせてください。と懇願した話をしたいと思います。
・経緯
2008年1月 広島への転勤が決まり、出雲を離れることが決まりました。9月から広島は府中町に住むことになったのですが、その話で親が喧嘩したらしく、別居状態となり、自分はなぜか安来市広瀬町というとんでもなく田舎に飛ばされることになりました。
どれくらい田舎というと
・公共交通機関は1.2時間に1本のバスのみ
(日曜はほぼなし)
・車で20分ぐらいのところに駅はある。
もち1時間に1本
・スーパーは2つのみ、コンビニはポプラとローソンの2店舗のみ
・小、中学校は1つのみ、高校はない
・飲食店は全くなし、住んでた時にあった唯一の居酒屋も5年前には潰れてた。
ざっくりまとめるとこんな感じです。
それまで三原、東広島、出雲というとりあえず飲食店やスーパーはなんとかある場所に住んできた自分としてはだいぶ厳しい生活になると覚悟してました。
・想像以上の生活(小学校)
転校初日 町内に唯一の小学校である広瀬小学校に通うことになり、始業式の前にまず校長室にお呼ばれしました。そこでムッソリーニにかすかに似てる校長と、おかもとまりにかすかに似てる担任の先生であるかもと先生と色々喋りました。
唯一覚えてるのは給食が出雲の時は給食センターから運ばれてくる話をしたら、校長が「うちは給食室が校舎の中にあってねー。授業中から美味しい匂いがしてくるよー。あまりにも良い匂いだけえ、授業に集中出来なくなるかもねー。」と鼻を高くして喋ってました。
当時なんも思わなかったのですが、このような雑談は転校生の緊張を少しでも和らげるためだと思います。でも当時なんも思わなかったので、たぶん効果ないです。
そんなしょうもない話をして、始業式に向かうのですが、転校生の第一の鬼門は全員の前で挨拶をさせられることであります。
あの時間の苦痛なところは司会の先生が「今回の転校生はこの方です!どうぞ!」とまるでテレビでのゲスト紹介みたいな感覚で紹介するところです。
このように紹介された時どういう顔で出ていけば分からず、結局ヘラヘラして出てくるしかないのです。今も人の前で挨拶する時にヘラヘラしてしまうのはこれが原因だと思います。挨拶の時の顔の仕方募。
全校生徒の前で挨拶という地獄のイベントを終えた後に第二の鬼門として待ってるのは、クラスでの自己紹介です。
担任の先生に連れられクラスに一緒に入ったのですが、先生が「静かにして」と言っても全然聞かない。むしろ余計に騒がしくなっていきました。
この状態を見て察しました。「あ、このクラス噂に聞く学級崩壊だ。」と。
それからの学校生活はなかなかカオスでした。クラスでいじめられてる人が2人いたのですが、1人はブラックマヨネーズの吉田に似てて、もう1人はハリセンボンのはるかにそっくりでした。
あまりにもいじめが酷いため、我が担任であるかもと先生が何を血迷ったのか、その2人に対してどこが嫌いなのかをクラス全員で言うという授業を取りました。多分あの頃のかもと先生も相当病んでたんだと思います。
当然その回は悪口しか出てこず、挙句の果てには担任であるかもと先生にも悪口の矛先を向けられ、泣き始めました。当時小3の自分でもむ担任が泣いたら終わりじゃろ思いました。
結局その後もいじめが無くなることはなく、自分がまた転校するまで続いてました。今どうなってるか非常に見ものです。
他人事のように話してますが、自分も多分あのまま広瀬おったらやばかったかもしれないです。
クラスのカーストが小3にしてかなり激しかったのですが、転入当初仲の良かった女子2人がばりカースト高かったのですが、その2人に11月から急に狙われるようになりました。他の人は普通に接してくれたけど、あの2人はそれまでの関係が全くと言っていいほど無くなり、一緒に帰ることはおろか喋らなくもなりました。
喋らなくなって1ヶ月経った12月 急に帰ろう言われて一緒に帰ったのですが、学校の近くの坂で急に「視力ない人の世界を体験しよう」言われました。
きちんと誘導してくれることを条件として渋々受け入れたのですが、それが間違いでした。
「そこを左」言われて、言われるがままに曲がった先はコンクリートでした。顔面に思いっきりコンクリートぶつけました。その時の2人の顔は最初はすごい悪そうな顔してました。でも目の上から血が止まらない姿を見て流石にやばいと感じたのか先生を呼び、近くの安来病院に運ばれることになりました。
縫う前の姿はまるで電流爆破した後の大仁田厚のようでした。縫ってもらった後医者に「目に当たってたら失明してた」言われました。それ聞いたら変なところで運使ったな思いました。
このことから田舎に対して「もうやめます!!!」状態に陥った1つ目の原因です。
・想像以上の生活「普段の生活」
学校生活がだいぶカオスだったのですが、もっとカオスなのは普段の生活でした。
まずうちの親が自分を連れて広瀬来た時に、近所の人から「細田さん家のともえちゃん帰ってきたらしいよ」という噂話をされてることが自分の耳まで伝わるほど噂されてたらしいです。
都会では経験しづらいですが、田舎ではやることがあまりにも無さすぎて、噂話や陰口、悪口が止まらないです。
自分はよく都会の人が「田舎でのんびりしたい」という言葉を聞くたびに「え?」と感じるのはこの経験からだと思います。
田舎の人の風習に他人の行動にちょっかいをかけてくる人がよくいるので、これを耐えれなければ田舎ではやってけないと割と真面目に思います。
うちの親も浜田、出雲、津和野、隠岐、広瀬と幼少期に島根の田舎の方を転々としてきて、人の行動にやたら首を突っ込んでくるので田舎は魔境です。
噂話は小学校の話題もあるらしく、「細田さん家のお孫さんが目から血を流した」という話もされてたらしいです。
今の時期コロナが大流行してた時はコロナになった人の家の噂話や悪口で持ちきりだったんだと思います。
噂話に耐えきれず「もうやめます!!!!!!!」状態に陥った2つ目の原因です。
・田舎で暮らして良かったこと
ここまで広瀬に対する悪口ばっかですが、一応良かったこともあります。
・外食がしないため圧倒的自炊生活
外食する場所が全くないので、毎日自炊生活です。そのため自炊をするのが面倒くさいと思わないです。
これは今1人暮らししてて自炊に対して負の感情を抱かないのも、この時から来てると思います。
当時は朝からどんぶりの中に卵かけご飯、味噌汁、卵焼き。これが鉄板。これは小3で45kg。
自分で考えて作る自炊生活しか勝たん。
・人間関係
前述の通り女子2人組に的にされたのですが、他の人は割と普通に接してくれてました。その中でも川端さんという人はめっさ優しかったです。
席が隣になって喋るようになったのですが、たぶん小中学校合わせても1番隣の席で良かった人だと思います。体育の授業の野球でも同じチームでバッテリー組んでて、トーナメント戦が終わるまでは転校したくないなーという気持ちも微かにありました。
自分が府中に転校した後にもらった、クラス全員からのメッセージ川端さんのだけでも残しとけば良かった。と後悔してます。
・観光地が割と良い
安来市広瀬町は元々尼子氏の城下町であり、月山富田城から見える広瀬の街並みは普段の5割増しで良く見えます。その景色は霧がかかっていれば竹田城にも引けを取らないと言われてるらしいです。
ちなみに府中中央小で教頭をしてた尼子教頭先生は本当に尼子家の人間だと聞きました。こんなところで何してるんだろう?思いました。
また近くにはオレンジジュース一杯1000円取る、日本一の日本庭園である足立美術館もあり、意外と観光地には困ってないです。
さらに安来といえば安来節です。本物の安来節が見れます。自分も覚えようか思いましたが、面白い人にしか出来ないと思い諦めました。
・おわりに
広瀬に住んだことで良いことも悪いことも経験しました。転校してからもうすぐ14年経ちますが、この経験は10年住んだ府中と同じくらい濃ゆかったと思います。
もう住んでた実家も無いに等しいので、たぶん帰ることはないと思いますが、当時の記憶は死ぬまで忘れることはないでしょう。
おわり